作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

演奏します。10/8目黒FJ's、10/9阿佐ヶ谷ネクストサンデー

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3ヶ月ほど間があいてしまいましたが、今月からまたライブ演奏します。

 

10月8日 目黒のお店は初出演。どんなグランドピアノなのか楽しみです。
10月9日 ネクストサンデーは、以前からずっとお世話になっているお店です。スタインウェイのベビーグランドピアノが可愛い。

ご予約、お問い合わせは各ライブハウスまたは info-tomiyama-yuko.com(富山)までご連絡ください。久しぶりにお会いできるのをとても楽しみにしています。



 2017年10月8日(日・祝前日)
目黒 FJ's

開場 / 開演
18:30 / 19:00

出演
コミネリサ / 富山優子

料金
ご予約¥3,000/当日¥3,500(+1Drink Order)

予約・お問い合わせ
目黒 FJ's
〒153-0061 東京都目黒区中目黒5-1-20
Tel.Fax : 03-6303-1214
info@fjslive.com





 2017年10月9日(月・祝)
阿佐ヶ谷 Next Sunday
『ミュージック・オノマトピア』

開場 / 開演
18:30 / 19:00

出演
歳星 / 富山優子 / 湿地帯 / ふれでりっく書院

料金
2,000円(ドリンク別)

予約・お問い合わせ
阿佐ヶ谷 Next Sunday
東京都杉並区阿佐谷南 1-35-23 第一横川ビルB1
03-3316-6799

うたかたのうたがた 4~たった今ひつようなものだけ

段シャリ案件

店舗によっては「シャリのない寿司」というメニューもあるようで、それって刺身じゃないの?というツッコミが喉まで出かかってしまう。

前回に「物が多いことが嫌い」と書いたが、同様の感覚として小さなものがひしめくさまや人口密度の高い場所が苦手だ。しかしお客様は多い方が良い、そんなワガママな人種である。
話は戻って、生活の中で「いる」「いらない」を見極めること自体が、各々の美意識と紐づいているように思える。断捨離について考えを巡らせるとき、自分にとって何が必要/不要なのか、どんな自分でありたいのか、はたまた万が一遭難したときに代用品で生き延びられるのか、多機能な物を持っていたいのか、趣味が変わらない/変わりやすいほうなのか、といった自分そのものを逐一問われているような気がする。物を目の前にして、今までの生き方やこれから望む生き方について考えざるを得ない。
「だんしゃり」では一気に変換できないため「断つ」「捨てる」「離れる」と分割して入力すると、更によく意味をかみしめられる。単語としてもなかなか強めの言葉が並んでおり、これらを物ではなくて人間関係に適用したらちょっとコワイなぁと思ったりする。実際のところは、そんなにスパッと断ち切れないのが現代の人間関係なんだろうけれども。

物であれば比較的冷静かつテキパキと処分できるのであるが、データとなると途端に未練がつのる。数年は開けていない謎のテキストファイルや過去の写真データ、フォルダ階層の深い海溝に埋まっている日々の録音ファイルなど一見ごみのようなデータがなかなか捨てられない。一度は捨てたデータを未練がましく復元ソフトで戻したこともある。物にたとえれば、ごみ捨て場に捨てたごみをもう一度拾いに行くようなことである。そんな恥ずかしいことも、データだと羞恥心もなく出来てしまう。なんだろうこの感覚の違いは…?だからインターネットと現実で振る舞いが違う人たちが出てくるのだろうか…?想像は続く。データの整理は進まない。

思えば「陳列の平面化」はデスクトップに始まる。ファイルをフォルダに分けると忘れてしまうのを危惧し、作成したファイルがデスクトップ一面に広がる花畑を作ったことが何度もある。時折はたと気づいて「デスクトップ1」というフォルダを作成、散らかし放題のファイルを一度に放り込む。そういうことを繰り返して「デスクトップ2」「デスクトップ3」とナンバーのついたフォルダが増えていく。そのうちパソコンが使えなくなり、そうなって初めてデータを諦める。

壊れてしまえばいいのだ。ここだけ読むと破壊願望のある女のようにも読めるが実際そんな願望は全くない。
壊れてしまえば、無くなってしまえば、諦めざるを得ない。確実に破たんした状態にまでならないと、現世ではそう簡単にモノやコトやヒトが諦めきれない、未練がましい存在なのである。いつか使うかも。いつか参考になるかも。いつかっていつなんだろう?とりあえず今ではないらしい。いつか訪れるかもしれない未知の瞬間のために、人はどれだけのものを溜め込み、どれだけのことを心配しているのだろうか。たった今ひつようなものだけを鞄に詰めて、好きな場所に行って暮らしていける身軽さに、心のどこかでは憧れている。


来月はピアノ弾き語りソロで演奏します。
10月8日(日、祝前日)目黒 FJ's
10月9日(月、祝)阿佐ヶ谷 Next Sunday
http://www.tomiyama-yuko.com/live.html

うたかたのうたがた 3

野良物、住所不定につき

「部屋を片付けられない」という意見には常に疑問を感じている。先日も同じことを言っていた友達と激論を交わした。その友達は、例えば家の飾り棚には可愛らしい雑貨と共に、洗ったか洗ってないのか不明な靴下が転がっているという。買った食品や取り出した小物は「しまい込むと忘れる」という理由から、平面上に並べているらしい。他にも、干そうと思っていた羽毛布団が部屋の隅に転がった状態で半年が過ぎた、など、まるで都市伝説のような怪奇現象が次々と明らかになる。一つずつ検証していこう。

もともと物が多いことが嫌いなので、必要最低限しか物を持ちたくない。それでも知らずのうちに物とは増えていくため、定期的にいま目につく場所にある物を一つずつ指さして「使っている、使っていない、使っている、」と確認したのち、「使っていない」と断言された物はクローゼットにしまう。1年以上しまわれた物たちは、家から処分する。使ってない物は無くても困らないのだ。これは原則的にそうだ。
しかしこのルールは、楽器やCD、ほか書物には適用されない。そもそも楽器やCDや書物など「今すぐに使うわけではないが捨てるわけにはいかない」種類のコンテンツが多いので、それ以上の生活用品をなるべく減らしたい気持ちからの行動である。

私の住居スペースにある物は既に所定位置が決まっている。何をどこにしまうかを初めに決めておき、あとは動かしたり出したりしたあとに元の位置に戻す。やっていることは、ただそれだけで至ってシンプル。散らかりようがない。この点に関しては、家族からも同意を得られた。いつぞやは一緒に暮らしていた人間同士は行動パターンが似ているのだろう。人はなぜ移動した物を元に戻さないのか?弟に尋ねてもこの点に於いて回答が得られず、どうしてだろうねえと首を傾げあった。

物には常に住所が決まっており、住所不定の物は自分で決めればよいのだ。前出の「洗ったか洗ってないのか不明な靴下」は、不明だったら洗えばよいのだ。よって、それらの現住所は「洗濯かご」になる。以上だ。
次の「しまい込むと忘れる」物に関しては、忘れるくらいならそもそも不要な物にちがいない。私だったら「使っていない」と認定ののちクローゼットにしまい、1年以上経ったら処分する。平面に並べると無限に散らかるので、人類は平面から空間へ、二次元から三次元へと収納空間を進化させていった。この21世紀に人類の進化と逆をたどるとは勿体ない。
「干そうと思って半年」に至っては、干せば良いのだ。放置後一週間経過して干せなかったら、押し入れにしまえば良いのだ。もし干していないためカビてしまっても、部屋の隅でカビるか押し入れでカビるかの違いなんじゃないだろうか。とにかく住所不定の野良物がそこらへんをウロウロしていると気になり、落ち着かない。

などと偉そうに書いているが、この答えまで辿り着くには相当の時間を要している。学生時代は洋服と漫画と謎の雑貨で溢れる部屋に住んでいた。こちらも答えはシンプルで、収納する場所が少なかったのだ。当時は愚かであり、収納場所を増やすと部屋が狭くなると敬遠していたものだが、そもそも収納場所が無ければ物は散らかって領土を侵す。しかも平面に。
かさばる収納場所を作ることを恐れない、このことにようやく気づいた。そんな人生だった。



来月はピアノ弾き語りソロで演奏します。
10月8日(日、祝前日)目黒 FJ's
10月9日(月、祝)阿佐ヶ谷 Next Sunday
http://www.tomiyama-yuko.com/live.html

うたかたのうたがた 2

やりたいことのやりかたについて。

これから新しく一つのことをやりとげるのは何であれ並大抵のことではない。まずは継続するのに時間がかかるので途方に暮れてしまうのと、自ら選んだやりたいことのくせに「めんどくさい」と思う気持ちは正直なところ、ある。やっているうちに露呈する自分の能力の低さに打ちひしがれ、手を付けたくなくなり、「もしかしたらこれは本当に自分のやりたいことではないのでは?」「本当に向いている天職は他のことかも?」とありもしない”本当とやら”を求める思考の逃避が始まり、日々こなす雑事にかまけて徐々に初心を忘れていく。道具が埃をかぶっているのを見て見ぬふりする。過去の自分が悲しんでいる。

何かをやり続けるには、もはや「それをやっている」と意識しなくなるほどに習慣化する必要があるのだろう。「好きで好きでたまらなく、ずっとやっていたい」と思える間は良いけれども、そういった恋愛初期症状にも似た状態は、そう長く続かない。嫌ではない程度のお稽古事に定期的に通っている状態が、一番幸せな時期のようにも思える。
「すごくやってみたい」「とても憧れる」という強すぎる想いを持っていると感情のアップダウンに振り回されてしまうのを避けるため、「ちょっとやってみたい」くらいのモチベーションが続けば良いのかもしれない。今日もちょっとやってみたい。今日もちょっと生きてみたい。今日もちょっと書いてみたい。今日もちょっと散歩してみたい。とりあえずちょっとだけやってみてから結果のよしあしは未来の自分が決める、くらいの開き直りがものごとを続けさせてくれるのだと自分に言い聞かせてみる。なるほど確かに。

もしくは、もはや「やってみたい」という不安定な自分の希望には頼らず、生活の中に行動を組み込んで「やる」方法も良く採られている。作家のHARUKI氏は早朝に起床して午前中に執筆したあとパスタを茹でてランニングをする生活パターンを続けているらしいし(氏の著書『走ることについて語るときに僕の語ること』を参照)、私が好きな女流作家のM.KAKUTA氏の独身時代は、住居とは別に借りた仕事場に弁当持参で9時~17時に出勤して執筆していたとのこと。それはもう意志の強弱ではなくて、毎日ごはんを食べるレベルにまで行動を落とし込んでいるのだ。非本能を本能と並列できている時点で尊敬してしまう。どうして毎日いくらでも眠れるのに、やりたいと思ったことを毎日やらないんだろう?自分に問いたい。

それならば、我ら自堕落な人間どもの大敵である「めんどくささ」って一体なんなんだろう?と考える。やってもいない段階で「これをやったらめんどくさい」と考えてしまうその思考。いざ手を付け始めたら、大嫌いなことでもなければ大抵のことはそれなりに面白くなってくるものなのに。もしかしたら正しくは「手を付け始めるのがめんどくさい」なのかな。普段の状態と、それをやっている状態があまりにも違うので、変身するのが大変ってことなのかしら。しかしそもそも、普段の自分とは違う状態に変身したくてやってるんじゃないの?やりたかったはずのことになかなか手をつけられずに「やらなきゃ」と思い続けながら、もっと気軽に手を付けられる別のことをやっている時間の、なんとつらいことか。だったら早くやり始めればいいのに。無限ループである。

世界的なアニメ映画監督のHAYAO氏を追ったドキュメンタリーを見たことがある。驚くほど精力的な仕事ぶりは勿論のこと、特に印象的だったのは氏が、「アニメってめんどくさいよね」「あーめんどくさい」とトレース用紙をパラパラと動かして描きながらしきりにつぶやいていたシーンだ。何かをやるってめんどくさいことなんだ、と重々承知のうえで、常に手を動かして作品を完成へと導く。「めんどくさい」の積み重ねが作品を生み出す。考えてみればもっともな話だ。めんどくさいことを何もせず手軽く作られたものに心動かされたときが今まであったろうか。

うたかたのうたがた

夢の中で思いついて、やってみたいことがまた増えた。

とはいっても夢は潜在意識の顕在化なので、今までも折に触れ興味を持ってきたことを改めて強く意識したに過ぎないのだろう。潜在意識は宝物庫でありパンドラの箱でもある。興味本位で開けてみたいが恐ろしい。

誰もみな生活に忙しく、友達とてもなかなか機会をつくらなければ会えないものだが、幸運にもここ最近は、人生のいろんな時期に知り合ってきた友達とまた会えて嬉しい。みなそれぞれに状況は変われども、出会った当初に感じたシンパシーはそのままだ。”シンパシーとテレパシー”と言っても良いかもしれない。次に相手が何を言うのか予測できるのがテレパシー、自分が思っていることと相手が思っていることが一致するのはシンパシーと勝手に思っているけれども、ようするに自分が友達になりたい相手とはどこかしら似ている部分があるのだろう。”友達になりたさ”というのは、その人の属性によらない。仕事の種類や家庭の有無や趣味がなんであれ、思考のやりかたとか速度とかいった、もっと本質的な部分に興味が持てて共感もできる相手と、同じ時代に出会えて交流を続けられているだけでも有難い。

昨今流行りのSNSには私もさんざんお世話になっており、旧友と再会できたのも持て余す時間が減ったのもこれらのおかげといえなくもないのだが、数年間は顔を見ていない友達の近況を逐一知っているのも妙な心もちだ。ひとりひとりに実際に会いに行ったらどうなるんだろう?会話は弾むだろうか。だがしかし、対面で会話するよりも多くの情報をSNSで公開している人もいる。私は、数年間は会っていない友達が昨日の昼に食べたランチの内容まで知っている。数年も前の記憶の中の相手とネット上の振る舞いは、もはや別人なのではないだろうか。でもまぁそうなのかも。相手の持つ「私に対するまなざし」は、ネットでの情報には含まれていない。

そうか、”ネットで得られる情報”と”現実に五感で得られる情報”は種類の違うもので、ネット情報は内容こそ詳細で赤裸々であるが解像度が荒いように感じられる。No空気。真空で、動物的な手触りを感じることがとても難しい。というか、そもそも手間の掛け方が全然違うのだ。人差し指でボタンを押すのと、人に見られても恥ずかしくない格好に着替えて待ち合わせに間に合うよう家を出るのとでは、手間も心構えも大きく違ってくる。”指一本で得られる世界”と”身体を使った大冒険”だったら、めんどくさいこともあるけど自分には後者が向いているし、充実感を感じるのはそっちだよなぁとも感じている。ネットとは残滓なのか。おすそわけなのか。

 

来月はピアノ弾き語りソロで演奏します。
10月8日(日、祝前日)目黒 FJ's
10月9日(月、祝)阿佐ヶ谷 Next Sunday
http://www.tomiyama-yuko.com/live.html