作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

歪んだ愛の不在

最近、1960年代、70年代の映像やら演奏やらを研究する機会が多く、
折に触れて思うこと。

なんかもう、私たちとは目が全然違うってこと。
60年代、70年代の彼らは信じている。
今よりも良くなることを信じている。
進歩を信じている。
可能性を信じている。

いっぽう我々は、なにごとも本心から信じることが出来ない。
現状から、時代も自分も良くなって、進んで行ける可能性が自分にあるだなんてこと、本当に信じられますか?本当に信じていると言えますか?それを信じることは怖いし、信じるものは馬鹿だとすら思っている。そんなことあるわけがないと思っている。というか既に、信じることそのものが脆弱すぎる。信じる力すら失っている。
何を信じればよいのかわからないまま戸惑う、それが我々じゃないのか?
信じる力が到達した頂点を横目にしながら、自分とそれらを関係づけることが難しい、絞り尽くされた人間の限界を目の当たりにして絶望するのが我々の世代だろう?なにしろ情報なんて山ほどある。かのテクノポップみたく、信じる姿を嘲笑するなんて半端なものじゃない、始めから既に無いのだ、対象が何も無いのだ。信じるべき対象も、嘲笑すべき対象も、どちらも無いんだ。何でもいいから信じられるものならば、そのほうが幸せだという情報は得ているし、幼少時代からの感覚としては知っているのに、信じられるものが、生まれたときから、何も、無いんだ。そのくせ、信じたい自分は確固として在り、もがきながら求めているのだ・・・何を?それがわからない。求。何かを。そうして皆、途方に暮れる。信じるべき絶対的価値も、抗うべき絶対的価値も、僕らは手にしていないから、持ち併せていないから、信じることも反抗することも出来ないんじゃないか・・・だから苛々している、もしくは苛々することを諦める、皆、その感覚、知っているよね?長い間、絶対の不在。実感の不感。情報なんて山ほどある。柱の不在。家族においても、属する社会においても。



この感覚から時代が抜け出せれば良いのだけれども。
そんなふうにいつでも誰もが救世主を待っている。



信じることを恐れながらも手探りで人とつながっていきたい。暗闇の中で探りながら手を伸ばしたら、同じように遠慮がちに伸ばされた手と触れ合うことも起こるのだと、その可能性を信じたい。



http://www.youtube.com/watch?v=Jgs8zeKegs4