作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

今日のブログ 8/18

確かに朝から空砲が何発か鳴っていた。


多摩川の花火大会である。去年は震災の影響で会場数が減り、時期も大幅に遅れ、マンションの最上階に知らない住民と並んで秋風の寒さに震えながら、ビルの合間を覗き見た思い出ならある。
今年は朝から何度も「やりまっせ、やりまっせ〜」としきりに空砲を打ち鳴らしていたが、去年のことがあるのでたいした期待もせずに家で勉強をしていた。丁度19時に、「ドーン!」と大きな音が聞こえたので、始まったかと思い窓から音の出所を探した。
二会場のうち一つが、部屋の出窓の真正面である。越してきて始めての、通常運営の花火大会。今まで住んできたところも近くで何箇所も花火大会はあったが、こんなに窓から良く見える場所は初めてだ。これ幸いとばかり、コンビニへ行きカラアゲを所望した。
道すがら、会場へ向かう人々と出会う。泣き叫ぶ子供の声がほうぼうから聞こえる。会場から近いので、大玉があがると、かなりな音量で「ドーーーーン!!!!」と響き渡る。音だけの花火というのは、生物にかなりのストレスがかかり、何度もドキッとさせられるが、まぁよい、今の最優先事項はカラアゲだ。
カラアゲとノンアルコール飲料を手に入れ、家に戻る。最初は出窓に体育座りで楽しんでいたが、不安定だし疲れてきたので、近くのベッドの上に座り、網戸を閉め、薄明かりをつけ、エアコンを軽く入れた。十分に見える。極楽である。これで足湯があればパーフェクトといえよう。


だいたい花火というものは、準備段階や開始直後こそ歓声をあげて楽しけれ、じき飽きてくるものである。特に開始30分後ぐらいから、特徴のない平凡な玉をやるきなく打ち上げる、中だるみタイムが設けられているものである。次の準備をしているらしき空白の時間も生まれる。それらの時間もラストへの盛り上げを意識すればこそ必要なのであるが、だいたいこのあたりで皆が「待っている」体になり、持参の飲食物を黙々と食べて場をしのがざる得ない。
おまけに花火会場は人が多く、蒸し暑く、蚊に刺され、子供が走り回り、ときに目の前を横切られ、騒がしく、声を張り上げて会話し、喉を痛め、タバコを吸われ、喉を痛め、喉が乾き、飲み物の列に並び、飲んだら尿意をもよおし、トイレの列に並び、そうこうしているうちにラストのスターマインを見逃し、気づけば押すな押すなの怒号が飛び交う帰りの列に並んでいるものである。


と書いているうちに、もう花火があがらなくなった。1時間すこしで終わってしまった。私の夏休みも終わった。また来年が楽しみである。


色々言ったが、友人みんなでわいわい言いながら見る花火大会も好きだ。

ではまた