昔から、頭の中では色々なものが渦巻いていました。
それは音であったり、声であったり、文字であったり、姿を持たない感覚であったり様々でしたが、
断片的に浮かんでは消えたり、はっきりとした姿をあらわさないまま留まっていたり、
人の頭の中を覗くことはできないので、
これはどうやら他の人には見聞きされていないらしい、自分でなんとかして整理しなければ、このままでは頭の中がパンクする、
と危機感を抱いた結果、私は、文章を書いたり、曲を書いたり、芝居を作ったりしていたようです。
ということが、今日わかりました。
頭の中にあったものを何らかの手段で外に現すことを続けた結果、”思い付き”と”作品をつくること”は違うと考えました。
思い付きが創作ではないと、何故言えるのでしょうか。
今まで自分が見聞きした情報が、脳内スープの中でぷかぷか浮いている。スープの中に何を入れたかは、自分でもよく覚えていない。
あるとき突然、入れたおぼえのない調味料が、スープの中から姿をあらわす。
それを、今までになくとても良いものだと思う。
これが、自分の思い付きを良いものだと感じる瞬間です。
良いと思った調味料を意識的に料理に使ったら、また違ったものを作れた。
これが創作です。
創作には知力が必要です。でも創作の基となる素材は、記憶の蓄積と読み直しです。
知力だけでも、記憶だけでも、創作は出来ません。
両方使ってはじめて、それは創作たりえます。
では、知力と記憶があれば、創作が出来るのでしょうか。
それだけでは、まだ足りないものがあります。それは、
人間の感情です。
業や怨念も含みます。
知力と記憶があれば、いちおうはモノが作れます。
でもそうやって出来たものは、人の心を動かすことがありません。
実用的なものなら作れます。ドラマの悲しい場面に使う音楽、華やかな祝典に使う音楽。
でも人間は、感動したかったり自分の感情をわかってもらいたかったりするから、
音楽なんかに、映画なんかに、本なんかに、触れるんじゃありませんか。
泣かされるとわかっていて泣くのは、感動とは違います。運動です。
知性や感情を持つ人間に触れてもらうために、作品をつくっていきたい。
同じ思いで、人の作品にも触れたい。
そんなふうに思った日曜の朝です。