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作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

おばあちゃんの百か日法要

最近とみに体が重く寝てばかりで、低気圧のせいなのか、遅れてきた五月病なのか、実はうつなのか、色々と原因を考えていたのだけれど、どうやら、まだおばあちゃんの死から立ち直れていないみたい。

 

明日は、おばあちゃんの百か日です。亡くなったときには、百日なんてずっと先の話だと思っていた。もうそんなに経ったんだ。父が法要の準備をしてくれました。

百か日は別名、卒哭忌(そっこくき)ともいい、もう泣くのをやめる日なのだそうです。今でも、おばあちゃんを思うと泣く・・・どうして泣くんだろう?それは、会えなくて寂しいから。それでも、生前だって遠くに住んでいたからしょっちゅう会っていたわけじゃないのに・・・またいつか会えるって思ってたからだ。いつか会えるって、ずっと思っていたら、急に会えなくなった。

 

他の家族とだって、一緒に暮らしているわけじゃないからたまにしか会わないけど、元気にやってるんだろうなって思うから、やりとりしなくても悲しくならず日々平穏に暮らしていける。

もう会わなくなった大切な人たち、沢山いるよ?生きているかどうかも、わからないけれど、きっと生きてるって思うから、いま会えなくても泣きはしない。それなら、おばあちゃんはまだどこかで生きているって思ったらどうだろう?

 

私は死んだ人と交流をしたことがない。だから死んだら無に帰ると思っている。もしもおばあちゃんが魂だけになって、魂は死ぬことがなくて、おじいちゃんやひいおばあちゃんの魂と会うことが出来たのなら、もう不自由な肉体に苦しむこともないし、よかったなと思う。それは確かめようが無いから、自分に言い聞かせるだけの言い訳に過ぎない。それでも、自分とは交流できない別の場所に居てみんなと楽しく暮らしているんだろうって思わないと、残された者はやりきれなかったんだろう。

 

100年も経たないくらいで、人間は死んでしまう。

そう思うと、やりたいことをやらないでいるなんて変だ。

いつかやる、と思ってると、いなくなっちゃうかもしれない。

そのいつかは、もう来ないのかもしれない。

 

湿った土のにおいがする。明日も雨かな。

百日を過ぎても、私はきっと思い出して泣くよ。