作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

ウェブ活用法2.0

たれもがすなる ブログをや われもせんとす

 

 

ブログもSNSも存在しなかった時代のお話。

WWWに魅せられた者たちは自らHTMLタグを書き、「Welcome to my HOMEPAGE」のロゴを作り、細かくレイアウトを修正し、悦に入っていた。私もその一人で、夢中になってタグを書きFTPアップロードしまくりF5キーで更新をしまくったものだ。

自分の考えたレイアウトが画面上でいっぱしの形になるのが面白かった。本を出版するのは誰もが出来るわけじゃないけど、単なる一個人がそのようなものを画面上で生み出せるスリルがあった。しかもそれを知らない誰かが見ているかもしれない興奮たるや、ほかに、なにと、たとえよう。

フレーム、好きだったな。そのうち主要ブラウザがフレームを推奨しなくなり、みんな使わなったよねフレーム。

 

HTMLとは、文字と、文章と、写真と、色と、リンクと、さまざまに組み合わせて独自の出版物が画面で作れる夢のような動的ツールだった。皆さまざまに工夫を凝らして、スクロールしてもしても終わらないページとか、背景と文字色を同色にした隠れ文字とか、フレームインフレームとか、勝手に作ってて滅茶苦茶で面白かった。コンテンツうんぬんよりも、枠組みそのものを面白がっていたというか。そんな無法地帯も段々に規格化されて、使われるために観られやすくなってしまったね。

 

そしてブログというパッケージが出てきたとき、携帯電話やスマホと組み合わせて誰もが文章や写真をウェブに公開しやすくなったかわりに、それがあまりにもあっさり実現出来ることに拍子抜けしたし、あらかじめ決められたテンプレートから「選択する」行為を強いられることに最初は反発も覚えたものだった。なのでしばらくは自分でHTMLを書くことに固執してしまった時期もあったけど、不自由さに少しくらい目をつぶりつつ便利なものは使えばいいじゃないかマインドになっていった心境の変化は、言ってしまえば「便利からの洗脳」なのだろうか。どうなんだろう。

 

なんてことを最近ちらと考えたりするのは、久しぶりに箱庭的発信方法をまたやってみようかな、なんて気になってきたから。ツイッターやFBでは発想のかけらが刹那的に分散するだけで、皆なんだかもったいない。なおかつ、基本は音楽馬鹿だけど、文章や写真や映像にも興味があるので、そういうのを日々思いついたり書いたりして生きていくのは面白いじゃないですか。

 

って、誰に言ってるんだろう。誰に言うともなく、うつりゆくよしなしごとをこころのままにかきつらねる行為は、何百年も前から人間はおこなってきたよ。

 

 

いつも何かを思う。何かを見ても見なくても、いつも何かを思う。思ったこと、心にある不定形な何かに形をあたえてやらないと、つらくなる。そんな不自由な人間にとって、ウェブは好都合なのかもしれない。

そうやって顕在化したものが”小さな美”だったらいいな、と、ずっと思っています。

 

 

花曇り 七分咲きの梅下にて春を想う

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BGM


Bach-Stokowski 'Ich ruf zu dir' - Philadelphia Orchestra - YouTube