作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

たかなしの日々

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間違えて「たかなし」と入力してしまって、「小鳥遊」と変換された。
これをたかなしと読むというのか。
なんて素敵な名前。たかなしになりたい。

 


10月9日のワンマンライブも終わり、いま自分の精神は今までになく自由というか澱が少ないというか、小難しいこともあまり考えずに小鳥たちが互いをついばんで遊ぶように”日常の音楽その他”を楽しみまくっている。そんな時期が来てよかったと思う。

 

月2~3回のブッキングライブは新しい出会いがあって楽しいから続けるとして、今回の ワンマンみたいにコンセプチュアルなことを念入りに準備して数か月に一回やるのは、短期的な目標にもなるし性格上あっているみたい。自分にとって作曲は創作の頂点だとしても、音楽はもっと懐が広い。演奏とかアレンジとかセッションとかカバーって、以前は自分にしっくりこなかったんだけど、徐々にそこでも遊べるようになっている気がする。ただ、知恵を絞って作曲しないんだったら、それ同等の面白いものを見せられないといやだなー悪いなー、とは思っている。

 

とはいえ最近ではめっきりゆるくなっていて、音楽をやること自体の意味づけなんて最早確認すべきことではなく、ただ衝動だけは尽きることがなく、音楽の中で存分に遊ばせてもらっている。人前で音を出すと、うっかりと思いもよらないものがこぼれ出てくる。「うっかり」は過去の蓄積であり、いまこの瞬間であり、数十年前のトレーニングとつながっている。友達と手をつないで歩いた道とつながっている。中学校の卒業式と、親戚の葬儀と、オーケストラの練習風景とつながっている。かすれた景色はランダムに 浮かんでは消え、いつどれが出現するかは誰も知らない。演奏するときにだけ、その景色を見ることができる。

 

どうして同じ曲でも日によって全然違う演奏になるんだろう。当日に見たものや体調や会場の作りや楽器やPAやお客さんや共演者の様子に反応しすぎなのかな?演奏のたびにフィールが違うことを怒られた経験もあるけど、私はその場の瞬間をつかまえて、たったいま曲が産まれたみたいにイキイキした演奏が出来るほうがいいと思っている。

 

わからない、最終的には笑っていられればいい。出来れば演奏中に。
なんだか最近色々なことが面白すぎて、今の時期を少しでも留めておければなーということで書いています。読んでくれてありがとうございました。