作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

うたかたのうたがた

夢の中で思いついて、やってみたいことがまた増えた。

とはいっても夢は潜在意識の顕在化なので、今までも折に触れ興味を持ってきたことを改めて強く意識したに過ぎないのだろう。潜在意識は宝物庫でありパンドラの箱でもある。興味本位で開けてみたいが恐ろしい。

誰もみな生活に忙しく、友達とてもなかなか機会をつくらなければ会えないものだが、幸運にもここ最近は、人生のいろんな時期に知り合ってきた友達とまた会えて嬉しい。みなそれぞれに状況は変われども、出会った当初に感じたシンパシーはそのままだ。”シンパシーとテレパシー”と言っても良いかもしれない。次に相手が何を言うのか予測できるのがテレパシー、自分が思っていることと相手が思っていることが一致するのはシンパシーと勝手に思っているけれども、ようするに自分が友達になりたい相手とはどこかしら似ている部分があるのだろう。”友達になりたさ”というのは、その人の属性によらない。仕事の種類や家庭の有無や趣味がなんであれ、思考のやりかたとか速度とかいった、もっと本質的な部分に興味が持てて共感もできる相手と、同じ時代に出会えて交流を続けられているだけでも有難い。

昨今流行りのSNSには私もさんざんお世話になっており、旧友と再会できたのも持て余す時間が減ったのもこれらのおかげといえなくもないのだが、数年間は顔を見ていない友達の近況を逐一知っているのも妙な心もちだ。ひとりひとりに実際に会いに行ったらどうなるんだろう?会話は弾むだろうか。だがしかし、対面で会話するよりも多くの情報をSNSで公開している人もいる。私は、数年間は会っていない友達が昨日の昼に食べたランチの内容まで知っている。数年も前の記憶の中の相手とネット上の振る舞いは、もはや別人なのではないだろうか。でもまぁそうなのかも。相手の持つ「私に対するまなざし」は、ネットでの情報には含まれていない。

そうか、”ネットで得られる情報”と”現実に五感で得られる情報”は種類の違うもので、ネット情報は内容こそ詳細で赤裸々であるが解像度が荒いように感じられる。No空気。真空で、動物的な手触りを感じることがとても難しい。というか、そもそも手間の掛け方が全然違うのだ。人差し指でボタンを押すのと、人に見られても恥ずかしくない格好に着替えて待ち合わせに間に合うよう家を出るのとでは、手間も心構えも大きく違ってくる。”指一本で得られる世界”と”身体を使った大冒険”だったら、めんどくさいこともあるけど自分には後者が向いているし、充実感を感じるのはそっちだよなぁとも感じている。ネットとは残滓なのか。おすそわけなのか。

 

来月はピアノ弾き語りソロで演奏します。
10月8日(日、祝前日)目黒 FJ's
10月9日(月、祝)阿佐ヶ谷 Next Sunday
http://www.tomiyama-yuko.com/live.html