作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

うたかたのうたがた 4~たった今ひつようなものだけ

段シャリ案件

店舗によっては「シャリのない寿司」というメニューもあるようで、それって刺身じゃないの?というツッコミが喉まで出かかってしまう。

前回に「物が多いことが嫌い」と書いたが、同様の感覚として小さなものがひしめくさまや人口密度の高い場所が苦手だ。しかしお客様は多い方が良い、そんなワガママな人種である。
話は戻って、生活の中で「いる」「いらない」を見極めること自体が、各々の美意識と紐づいているように思える。断捨離について考えを巡らせるとき、自分にとって何が必要/不要なのか、どんな自分でありたいのか、はたまた万が一遭難したときに代用品で生き延びられるのか、多機能な物を持っていたいのか、趣味が変わらない/変わりやすいほうなのか、といった自分そのものを逐一問われているような気がする。物を目の前にして、今までの生き方やこれから望む生き方について考えざるを得ない。
「だんしゃり」では一気に変換できないため「断つ」「捨てる」「離れる」と分割して入力すると、更によく意味をかみしめられる。単語としてもなかなか強めの言葉が並んでおり、これらを物ではなくて人間関係に適用したらちょっとコワイなぁと思ったりする。実際のところは、そんなにスパッと断ち切れないのが現代の人間関係なんだろうけれども。

物であれば比較的冷静かつテキパキと処分できるのであるが、データとなると途端に未練がつのる。数年は開けていない謎のテキストファイルや過去の写真データ、フォルダ階層の深い海溝に埋まっている日々の録音ファイルなど一見ごみのようなデータがなかなか捨てられない。一度は捨てたデータを未練がましく復元ソフトで戻したこともある。物にたとえれば、ごみ捨て場に捨てたごみをもう一度拾いに行くようなことである。そんな恥ずかしいことも、データだと羞恥心もなく出来てしまう。なんだろうこの感覚の違いは…?だからインターネットと現実で振る舞いが違う人たちが出てくるのだろうか…?想像は続く。データの整理は進まない。

思えば「陳列の平面化」はデスクトップに始まる。ファイルをフォルダに分けると忘れてしまうのを危惧し、作成したファイルがデスクトップ一面に広がる花畑を作ったことが何度もある。時折はたと気づいて「デスクトップ1」というフォルダを作成、散らかし放題のファイルを一度に放り込む。そういうことを繰り返して「デスクトップ2」「デスクトップ3」とナンバーのついたフォルダが増えていく。そのうちパソコンが使えなくなり、そうなって初めてデータを諦める。

壊れてしまえばいいのだ。ここだけ読むと破壊願望のある女のようにも読めるが実際そんな願望は全くない。
壊れてしまえば、無くなってしまえば、諦めざるを得ない。確実に破たんした状態にまでならないと、現世ではそう簡単にモノやコトやヒトが諦めきれない、未練がましい存在なのである。いつか使うかも。いつか参考になるかも。いつかっていつなんだろう?とりあえず今ではないらしい。いつか訪れるかもしれない未知の瞬間のために、人はどれだけのものを溜め込み、どれだけのことを心配しているのだろうか。たった今ひつようなものだけを鞄に詰めて、好きな場所に行って暮らしていける身軽さに、心のどこかでは憧れている。


来月はピアノ弾き語りソロで演奏します。
10月8日(日、祝前日)目黒 FJ's
10月9日(月、祝)阿佐ヶ谷 Next Sunday
http://www.tomiyama-yuko.com/live.html