作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

うたかたのうたがた 5~データとのつきあい方

パソコンのデータを捨てられないのは何故だろう、と考えていた。よくよく思い返せば、それはデータだけでなく今 まで自分で書いてきた紙のノートやアルバムの写真やもらった手紙も同様に捨てられない。なんだか、それらを捨てるのは絶対にいやだ。自分史だとでも思っているのかな。


日常的にパソコンを使うことが多いと、散らかるファイルは自分の思考過程に近い軌跡を描く。デジタルとはいえ、 なぐり書きのノートと、さほど中身は変わらない。断片から次第に一つの到達点へとまとめられれば良いが、単なる断片で取り残されるファイルたちは若干不憫。日の目を見るのを待っている言葉たち、音たち。
私は作品に対してだけ執念深いところがあるのか、数年前に書こうとしていた曲の断片をまだ覚えていたりする。それがあるとき記憶の底からふと立ち上がって、新しい曲に発展していくことがある。こういったイレギュラーな記憶のあらわれかたはほんとうに人間ならではだなぁと思う。
パソコンのデータは、検索すれば出てくるがデータとして存在しないものは幾ら検索しても出てこない。人間の場合は自分にとって無意識の領域にあるバンクからデータが出てくることがあるが、それを意識的に操作することは容易でない。

なんというか、顕在化したデータを持っていることは安心感にもつながるのだ。自分の積み重ねてきたことを把握できているぞ、という安心感。じゃぁ把握できていなかったら、どうなるというのか。おそらく「やばい、まだ何もやっていない」と焦り、何かをやろうとして前に進もうとするんだと思う。考えてみれば、そっちのほうが良くないか ?

最近気づいたこと。現在より先の時間は未踏の領域なわけだが、或る程度の予測がついていると平常心でいられる。
予測をつけがたい瞬間に遭遇すると私は、なんだか体の力が抜けるようなトイレに行きたいような気分になる。ライブ前にも、そのような”ジュワーっとした”体の変化が必ず訪れる。そんなときは今までになかった体験や内的変化が訪れ、現実は明らかに今までとは違う方向へ進んでいく。大体がそうなので、面白いなあと思う。
”ジュワーっとした”体の変化は人それぞれなんだろうけど、例えばそれはたまにしか会えない友達と集まっていて会話が最高に盛り上がった時のめまいがするような感覚だとか、音楽雑誌に自分の名前や作品が掲載されているのを目にしたときのドキドキ感だとか、旅の道中であるとか、人から突然に好意を寄せられた時の予測不能な感じとかにも似ていて、うわぁーこれから自分はどうなっちゃうんだろう?って脳が混乱して通常は出ていない脳内ホルモンがドバドバ出ているんだと思う。それは刺激的であると同時に平穏を脅かし、足元をぐらぐらさせて、所在無い存在である自分に気づかせてくれる。

ジュワーッとしてドキドキする感覚に耐えられるまで走ってってみよう。平穏を脅かされることに疲れたならそのときは、データに埋もれて暮らせばいい。

 

今月はピアノ弾き語りソロで演奏します。
10月8日(日、祝前日)目黒 FJ's
10月9日(月、祝)阿佐ヶ谷 Next Sunday
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