作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

うたかたのうたがた 2

やりたいことのやりかたについて。

これから新しく一つのことをやりとげるのは何であれ並大抵のことではない。まずは継続するのに時間がかかるので途方に暮れてしまうのと、自ら選んだやりたいことのくせに「めんどくさい」と思う気持ちは正直なところ、ある。やっているうちに露呈する自分の能力の低さに打ちひしがれ、手を付けたくなくなり、「もしかしたらこれは本当に自分のやりたいことではないのでは?」「本当に向いている天職は他のことかも?」とありもしない”本当とやら”を求める思考の逃避が始まり、日々こなす雑事にかまけて徐々に初心を忘れていく。道具が埃をかぶっているのを見て見ぬふりする。過去の自分が悲しんでいる。

何かをやり続けるには、もはや「それをやっている」と意識しなくなるほどに習慣化する必要があるのだろう。「好きで好きでたまらなく、ずっとやっていたい」と思える間は良いけれども、そういった恋愛初期症状にも似た状態は、そう長く続かない。嫌ではない程度のお稽古事に定期的に通っている状態が、一番幸せな時期のようにも思える。
「すごくやってみたい」「とても憧れる」という強すぎる想いを持っていると感情のアップダウンに振り回されてしまうのを避けるため、「ちょっとやってみたい」くらいのモチベーションが続けば良いのかもしれない。今日もちょっとやってみたい。今日もちょっと生きてみたい。今日もちょっと書いてみたい。今日もちょっと散歩してみたい。とりあえずちょっとだけやってみてから結果のよしあしは未来の自分が決める、くらいの開き直りがものごとを続けさせてくれるのだと自分に言い聞かせてみる。なるほど確かに。

もしくは、もはや「やってみたい」という不安定な自分の希望には頼らず、生活の中に行動を組み込んで「やる」方法も良く採られている。作家のHARUKI氏は早朝に起床して午前中に執筆したあとパスタを茹でてランニングをする生活パターンを続けているらしいし(氏の著書『走ることについて語るときに僕の語ること』を参照)、私が好きな女流作家のM.KAKUTA氏の独身時代は、住居とは別に借りた仕事場に弁当持参で9時~17時に出勤して執筆していたとのこと。それはもう意志の強弱ではなくて、毎日ごはんを食べるレベルにまで行動を落とし込んでいるのだ。非本能を本能と並列できている時点で尊敬してしまう。どうして毎日いくらでも眠れるのに、やりたいと思ったことを毎日やらないんだろう?自分に問いたい。

それならば、我ら自堕落な人間どもの大敵である「めんどくささ」って一体なんなんだろう?と考える。やってもいない段階で「これをやったらめんどくさい」と考えてしまうその思考。いざ手を付け始めたら、大嫌いなことでもなければ大抵のことはそれなりに面白くなってくるものなのに。もしかしたら正しくは「手を付け始めるのがめんどくさい」なのかな。普段の状態と、それをやっている状態があまりにも違うので、変身するのが大変ってことなのかしら。しかしそもそも、普段の自分とは違う状態に変身したくてやってるんじゃないの?やりたかったはずのことになかなか手をつけられずに「やらなきゃ」と思い続けながら、もっと気軽に手を付けられる別のことをやっている時間の、なんとつらいことか。だったら早くやり始めればいいのに。無限ループである。

世界的なアニメ映画監督のHAYAO氏を追ったドキュメンタリーを見たことがある。驚くほど精力的な仕事ぶりは勿論のこと、特に印象的だったのは氏が、「アニメってめんどくさいよね」「あーめんどくさい」とトレース用紙をパラパラと動かして描きながらしきりにつぶやいていたシーンだ。何かをやるってめんどくさいことなんだ、と重々承知のうえで、常に手を動かして作品を完成へと導く。「めんどくさい」の積み重ねが作品を生み出す。考えてみればもっともな話だ。めんどくさいことを何もせず手軽く作られたものに心動かされたときが今まであったろうか。