作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

紡ぐ日々

7月の合間にアルバム曲を録音し始めて、

一区切りつく所までは、ひととおりやって、

いま、また更に先へ行こうとして新曲など作っている最中です。

 

このかん、けっこうゆったりとした時間を過ごしていて、

空いている時間でプールに行ったり、図書館で本を読んだり、

そうしているうちに夏休みが来て、公共施設は混雑しはじめた。

今だけ休み中の子供から、ずっと休みなんだろうご老人まで、

まさに老若男女が集う公共施設は、カオスで面白い。一定のバイアスがかかった学校や会社より、面白いかもしれない。

みんな何を求めているの?

何が欲しくて、どうなりたいの?

今日ここに来るまでは、どうやって過ごしていたの。このあとどうするの。

近くにいるのに話もしない他人のことだからこそ、自分勝手な好奇心でいっぱいになる。

 

図書館に行くと、ランダムに手に取った短い小説やエッセイをちらほら読む。大好きな角田光代、なぜだか気になる穂村弘、古道具好きな堀江敏幸、いつもイライラしているような保坂和志

(先日、つけっぱなしのテレビから流れるドキュメンタリー番組で、保坂さんを見た。ねこにエサをやって、神経質そうに見ていた)

図書館には言葉が溢れている。私はその空間が大好きで、いつも少しこわくなる。

きわめて静かな空間に、みんなの頭の中にある言葉たちが、ぎっしりひしめいているような気がする。

私にも、言ってやりたいことは幾つかあるんだ。でもきっと誰かを傷つけてしまうから飲み込む。

言ってどうなったら良いと思っているんだろう。欲しいのは謝罪の言葉?慰め?共感?

自分でもよくわからないので、今日もただ、曲を書いて言葉をつなげている。

 

言葉が、意味を想起させすぎて苦しいとき、言葉を用いない音楽が救いになる。

音楽は、だから・どうした?だから・どうもしていない。音は正確な言語的意味をもたないから、と、当たり前のことを自分に言い聞かせながら音を紡ぐとき、言語のない世界でいわれのない真空の旅をしている。

ねこのことを思い出す。ねことは話ができない。

ねこを蓮の葉に載せて運んでみたい。どんな顔をするだろうか。

 

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