作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

ありがとうございます 10/8は目黒FJ'sで演奏でした。

ほぼ毎月コンスタントにライブを続けてきた自分にしては珍しく、3ヶ月ほど演奏しなかったのちのライブでした。
久しぶりなのでお客さんきてくれるかな?と心配していましたが、いつも応援してくださっている方々やお久しぶりの方々まで、いろんな人に聴いていただけて嬉しかったです。ありがとうございます。

 

【セットリスト】
1.INTRO
2.若草の頃
3.ハイデリッヒ
4.おおグリーン
5.ホントのワ・タ・シ
6.ぜいたくな穴
7.おんがくのかみさま
8.ゆっときたい
9.フォーマルハウト
Enc.永遠を観る子供たち

 

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初出演の場所でした。深町純さんの絵画が重厚な雰囲気をつくりだしていました。
また演奏しに行きたいです。

共演のコミネリサさんはテレビアニメのテーマ曲を歌われてきた方で、それにとどまらず日本の童謡をアレンジしたり、ユニークなワードセンスが光るオリジナル曲など様々なスタイルに挑戦されていました。
中低域を響かせる歌声が素晴らしかったです。
またご一緒できますように。

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ありがとうございました!

うたかたのうたがた 5~データとのつきあい方

パソコンのデータを捨てられないのは何故だろう、と考えていた。よくよく思い返せば、それはデータだけでなく今 まで自分で書いてきた紙のノートやアルバムの写真やもらった手紙も同様に捨てられない。なんだか、それらを捨てるのは絶対にいやだ。自分史だとでも思っているのかな。


日常的にパソコンを使うことが多いと、散らかるファイルは自分の思考過程に近い軌跡を描く。デジタルとはいえ、 なぐり書きのノートと、さほど中身は変わらない。断片から次第に一つの到達点へとまとめられれば良いが、単なる断片で取り残されるファイルたちは若干不憫。日の目を見るのを待っている言葉たち、音たち。
私は作品に対してだけ執念深いところがあるのか、数年前に書こうとしていた曲の断片をまだ覚えていたりする。それがあるとき記憶の底からふと立ち上がって、新しい曲に発展していくことがある。こういったイレギュラーな記憶のあらわれかたはほんとうに人間ならではだなぁと思う。
パソコンのデータは、検索すれば出てくるがデータとして存在しないものは幾ら検索しても出てこない。人間の場合は自分にとって無意識の領域にあるバンクからデータが出てくることがあるが、それを意識的に操作することは容易でない。

なんというか、顕在化したデータを持っていることは安心感にもつながるのだ。自分の積み重ねてきたことを把握できているぞ、という安心感。じゃぁ把握できていなかったら、どうなるというのか。おそらく「やばい、まだ何もやっていない」と焦り、何かをやろうとして前に進もうとするんだと思う。考えてみれば、そっちのほうが良くないか ?

最近気づいたこと。現在より先の時間は未踏の領域なわけだが、或る程度の予測がついていると平常心でいられる。
予測をつけがたい瞬間に遭遇すると私は、なんだか体の力が抜けるようなトイレに行きたいような気分になる。ライブ前にも、そのような”ジュワーっとした”体の変化が必ず訪れる。そんなときは今までになかった体験や内的変化が訪れ、現実は明らかに今までとは違う方向へ進んでいく。大体がそうなので、面白いなあと思う。
”ジュワーっとした”体の変化は人それぞれなんだろうけど、例えばそれはたまにしか会えない友達と集まっていて会話が最高に盛り上がった時のめまいがするような感覚だとか、音楽雑誌に自分の名前や作品が掲載されているのを目にしたときのドキドキ感だとか、旅の道中であるとか、人から突然に好意を寄せられた時の予測不能な感じとかにも似ていて、うわぁーこれから自分はどうなっちゃうんだろう?って脳が混乱して通常は出ていない脳内ホルモンがドバドバ出ているんだと思う。それは刺激的であると同時に平穏を脅かし、足元をぐらぐらさせて、所在無い存在である自分に気づかせてくれる。

ジュワーッとしてドキドキする感覚に耐えられるまで走ってってみよう。平穏を脅かされることに疲れたならそのときは、データに埋もれて暮らせばいい。

 

今月はピアノ弾き語りソロで演奏します。
10月8日(日、祝前日)目黒 FJ's
10月9日(月、祝)阿佐ヶ谷 Next Sunday
http://www.tomiyama-yuko.com/live.html

演奏します。10/8目黒FJ's、10/9阿佐ヶ谷ネクストサンデー

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3ヶ月ほど間があいてしまいましたが、今月からまたライブ演奏します。

 

10月8日 目黒のお店は初出演。どんなグランドピアノなのか楽しみです。
10月9日 ネクストサンデーは、以前からずっとお世話になっているお店です。スタインウェイのベビーグランドピアノが可愛い。

ご予約、お問い合わせは各ライブハウスまたは info-tomiyama-yuko.com(富山)までご連絡ください。久しぶりにお会いできるのをとても楽しみにしています。



 2017年10月8日(日・祝前日)
目黒 FJ's

開場 / 開演
18:30 / 19:00

出演
コミネリサ / 富山優子

料金
ご予約¥3,000/当日¥3,500(+1Drink Order)

予約・お問い合わせ
目黒 FJ's
〒153-0061 東京都目黒区中目黒5-1-20
Tel.Fax : 03-6303-1214
info@fjslive.com





 2017年10月9日(月・祝)
阿佐ヶ谷 Next Sunday
『ミュージック・オノマトピア』

開場 / 開演
18:30 / 19:00

出演
歳星 / 富山優子 / 湿地帯 / ふれでりっく書院

料金
2,000円(ドリンク別)

予約・お問い合わせ
阿佐ヶ谷 Next Sunday
東京都杉並区阿佐谷南 1-35-23 第一横川ビルB1
03-3316-6799

うたかたのうたがた 4~たった今ひつようなものだけ

段シャリ案件

店舗によっては「シャリのない寿司」というメニューもあるようで、それって刺身じゃないの?というツッコミが喉まで出かかってしまう。

前回に「物が多いことが嫌い」と書いたが、同様の感覚として小さなものがひしめくさまや人口密度の高い場所が苦手だ。しかしお客様は多い方が良い、そんなワガママな人種である。
話は戻って、生活の中で「いる」「いらない」を見極めること自体が、各々の美意識と紐づいているように思える。断捨離について考えを巡らせるとき、自分にとって何が必要/不要なのか、どんな自分でありたいのか、はたまた万が一遭難したときに代用品で生き延びられるのか、多機能な物を持っていたいのか、趣味が変わらない/変わりやすいほうなのか、といった自分そのものを逐一問われているような気がする。物を目の前にして、今までの生き方やこれから望む生き方について考えざるを得ない。
「だんしゃり」では一気に変換できないため「断つ」「捨てる」「離れる」と分割して入力すると、更によく意味をかみしめられる。単語としてもなかなか強めの言葉が並んでおり、これらを物ではなくて人間関係に適用したらちょっとコワイなぁと思ったりする。実際のところは、そんなにスパッと断ち切れないのが現代の人間関係なんだろうけれども。

物であれば比較的冷静かつテキパキと処分できるのであるが、データとなると途端に未練がつのる。数年は開けていない謎のテキストファイルや過去の写真データ、フォルダ階層の深い海溝に埋まっている日々の録音ファイルなど一見ごみのようなデータがなかなか捨てられない。一度は捨てたデータを未練がましく復元ソフトで戻したこともある。物にたとえれば、ごみ捨て場に捨てたごみをもう一度拾いに行くようなことである。そんな恥ずかしいことも、データだと羞恥心もなく出来てしまう。なんだろうこの感覚の違いは…?だからインターネットと現実で振る舞いが違う人たちが出てくるのだろうか…?想像は続く。データの整理は進まない。

思えば「陳列の平面化」はデスクトップに始まる。ファイルをフォルダに分けると忘れてしまうのを危惧し、作成したファイルがデスクトップ一面に広がる花畑を作ったことが何度もある。時折はたと気づいて「デスクトップ1」というフォルダを作成、散らかし放題のファイルを一度に放り込む。そういうことを繰り返して「デスクトップ2」「デスクトップ3」とナンバーのついたフォルダが増えていく。そのうちパソコンが使えなくなり、そうなって初めてデータを諦める。

壊れてしまえばいいのだ。ここだけ読むと破壊願望のある女のようにも読めるが実際そんな願望は全くない。
壊れてしまえば、無くなってしまえば、諦めざるを得ない。確実に破たんした状態にまでならないと、現世ではそう簡単にモノやコトやヒトが諦めきれない、未練がましい存在なのである。いつか使うかも。いつか参考になるかも。いつかっていつなんだろう?とりあえず今ではないらしい。いつか訪れるかもしれない未知の瞬間のために、人はどれだけのものを溜め込み、どれだけのことを心配しているのだろうか。たった今ひつようなものだけを鞄に詰めて、好きな場所に行って暮らしていける身軽さに、心のどこかでは憧れている。


来月はピアノ弾き語りソロで演奏します。
10月8日(日、祝前日)目黒 FJ's
10月9日(月、祝)阿佐ヶ谷 Next Sunday
http://www.tomiyama-yuko.com/live.html

うたかたのうたがた 3

野良物、住所不定につき

「部屋を片付けられない」という意見には常に疑問を感じている。先日も同じことを言っていた友達と激論を交わした。その友達は、例えば家の飾り棚には可愛らしい雑貨と共に、洗ったか洗ってないのか不明な靴下が転がっているという。買った食品や取り出した小物は「しまい込むと忘れる」という理由から、平面上に並べているらしい。他にも、干そうと思っていた羽毛布団が部屋の隅に転がった状態で半年が過ぎた、など、まるで都市伝説のような怪奇現象が次々と明らかになる。一つずつ検証していこう。

もともと物が多いことが嫌いなので、必要最低限しか物を持ちたくない。それでも知らずのうちに物とは増えていくため、定期的にいま目につく場所にある物を一つずつ指さして「使っている、使っていない、使っている、」と確認したのち、「使っていない」と断言された物はクローゼットにしまう。1年以上しまわれた物たちは、家から処分する。使ってない物は無くても困らないのだ。これは原則的にそうだ。
しかしこのルールは、楽器やCD、ほか書物には適用されない。そもそも楽器やCDや書物など「今すぐに使うわけではないが捨てるわけにはいかない」種類のコンテンツが多いので、それ以上の生活用品をなるべく減らしたい気持ちからの行動である。

私の住居スペースにある物は既に所定位置が決まっている。何をどこにしまうかを初めに決めておき、あとは動かしたり出したりしたあとに元の位置に戻す。やっていることは、ただそれだけで至ってシンプル。散らかりようがない。この点に関しては、家族からも同意を得られた。いつぞやは一緒に暮らしていた人間同士は行動パターンが似ているのだろう。人はなぜ移動した物を元に戻さないのか?弟に尋ねてもこの点に於いて回答が得られず、どうしてだろうねえと首を傾げあった。

物には常に住所が決まっており、住所不定の物は自分で決めればよいのだ。前出の「洗ったか洗ってないのか不明な靴下」は、不明だったら洗えばよいのだ。よって、それらの現住所は「洗濯かご」になる。以上だ。
次の「しまい込むと忘れる」物に関しては、忘れるくらいならそもそも不要な物にちがいない。私だったら「使っていない」と認定ののちクローゼットにしまい、1年以上経ったら処分する。平面に並べると無限に散らかるので、人類は平面から空間へ、二次元から三次元へと収納空間を進化させていった。この21世紀に人類の進化と逆をたどるとは勿体ない。
「干そうと思って半年」に至っては、干せば良いのだ。放置後一週間経過して干せなかったら、押し入れにしまえば良いのだ。もし干していないためカビてしまっても、部屋の隅でカビるか押し入れでカビるかの違いなんじゃないだろうか。とにかく住所不定の野良物がそこらへんをウロウロしていると気になり、落ち着かない。

などと偉そうに書いているが、この答えまで辿り着くには相当の時間を要している。学生時代は洋服と漫画と謎の雑貨で溢れる部屋に住んでいた。こちらも答えはシンプルで、収納する場所が少なかったのだ。当時は愚かであり、収納場所を増やすと部屋が狭くなると敬遠していたものだが、そもそも収納場所が無ければ物は散らかって領土を侵す。しかも平面に。
かさばる収納場所を作ることを恐れない、このことにようやく気づいた。そんな人生だった。



来月はピアノ弾き語りソロで演奏します。
10月8日(日、祝前日)目黒 FJ's
10月9日(月、祝)阿佐ヶ谷 Next Sunday
http://www.tomiyama-yuko.com/live.html