作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

知ってか知らずか

少しずつ潮が満ちてきて気がつけば腰までが海に浸かっていた、のではなく本当は自ら波打ち際までじりじりと寄っていたのだ。というような時の話。


いつのまにかこのブログが音楽活動で埋め尽くされ、そのためにやっているといえばそうだが、20世紀の黎明期にはもっと自由に色々なことが書けた気がする。まぁ、いつでも自由に書けばよいといえばそれまでなのだけれども。
某ツイッターや某フェースブックに気持ちが分散しているのも要因の一つかもしれない、まぁやらなくてもよいといえばそれまでなのだけれども。
一体なんのため、そんなにも情報を必要とするのだろうか。某SNSの利用により得られた知識や利益はあるにしても、それらを得なかったら私は果たして困るのだろうか。人生の岐路で路頭に迷うだろうか。笑顔を無くして能面のように生きるのだろうか。
ならば思い切って、えいやとそれらを切り捨てたら、きっと私は毎日のようにこのブログを文字で埋め尽くすだろう。もっと友人にメールや電話をするだろう。それをしないのは、SNS特有の「つながっている錯覚」で慰められているからにすぎない。友人の動向を知り、オススメのYouTubeを鑑賞するのも、慰めに一役買っている。それで良いのか悪いのか、というよりも既に、それが当たり前なのだ。慣れてしまったことを捨てられないだけなのだ。

まったくよくわからない。使いたいのか使いたくないのかもわからない。100%手放す気持ちは、いまのところ無い。フェースブックで友達1000人出来たらどうなるか?どうってことないと思う。ただ単に、出会いの多い職業だということが証明されるに過ぎないのに、なぜ続けるんだろう、自分は。

電車の中で隣り合わせたスマート風で神経質そうな男が、iPadの大きな画面をひっきりなしにスクロールしているのが視界の隅にチラついて苛々する。隣人の読書は気にならないのに、どうして画面のチラつきはあんなにも気になるのか。きっとこの青い光には、動物の神経を逆撫でする成分が含まれているに違いない。どんなに文明を使って生活したところで、動物であることにはかわりないのだ。波の音に心を奪われ、満月にザワつき、運動をしないとボンヤリしてしまうのだ。それはわかってる、わかっているのに便利な暮らしを手放せないのが口惜しい。


〜〜閑話休題〜〜
シャワーに行って来た。今日のような空気の半端無い乾燥には、蒸気がほんとうにありがたい。



インターネットの波に身を横たえている間、私の体は死んでいる。体が死ぬと心が停止する。言葉が上滑りする。おかしいとは思っていたんだ、メールが普及した頃の話。直接触れ合わないで、こんなにも沢山の文字情報だけが移動するなんて。こんなんじゃ真意が伝わるわけないって思いながら、直接伝える為の努力を面倒くさがっていた。会話こそは、直接すべきなんだろうな。



決めた。必要な業務連絡はメールで。会話は直接しよう。告知情報は公開する。ブログは本を書くつもりで文章を書くから、読んでもらえればそれでいい。ブログにコメントがつかなくても、SNSに「イイネ!」がつかなくても、しょんぼりすることは何も無い。(つけてくれたら嬉しいけど)
ネットって本当は、一方通行に使うべきなんだ。

気がつけばくるぶしまで水に浸かっている。水は生暖かく重さを感じさせず、空気のように振る舞っている。善意が当然になり、持つことが持たないよりもよしとされる。知ってか知らずか、毎日のように必要ないものを浴び続けている。