作曲家・富山優子 音に言葉

日々之音楽・思考・言葉

映画『モリコーネ 映画が恋した音楽家』観た。

エンニオ・モリコーネの作品集ボックスセットを聴いていると混乱する。『ニューシネマパラダイス』のようなロマン派クラシックの音楽と、『荒野の用心棒』のようなマカロニ・ウェスタンの音楽と、特殊奏法を実験する現代音楽とが、時系列上でごっちゃになって提示される。全然違う音楽世界を、どうやって行き来しているんだろう?とずっと思っていた。
その疑問が少し解けたドキュメンタリー映画
 人から求められるものと、自分のやりたいことを、どちらも譲らず共存させていった作曲家だと感じた。アカデミアの世界から色眼鏡で見られても世俗的な音楽をやることを恐れず、大衆から批判されても聴きづらい現代音楽を映画に持ち込む。確かに、映画でよく知られているモリコーネのユーモラスな音楽や美しい音楽を期待して映画を見始めると、最初の1時間ほどは随分と違う性質の音楽の話なので、苦痛かもしれないです。しかしそれらが後の礎となっていく過程が面白い。集団即興のシーンもあります。
モリコーネの映画音楽はいつも、それだけで独立した楽曲なので、映像とMAと音楽が並走していくのが対位法のように立体的。よっぽど音楽に精通している監督とやっていたのか、と思いきや、長くタッグを組んでいたセルジオ・レオーネ監督は、脚本を書く段階から音楽を依頼していたという。早い、早すぎる。ていうかモリコーネ頼み。そして音楽が映像よりも先に出来て、撮影現場で音楽を流しながら演技をしてもらうシーンにはびっくりした。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』でカメラが回り、セットに入ると音楽がうっすら流れていて、困惑するロバート・デ・ニーロ。ほかにも『ミッション』では超有名曲『ガブリエルのオーボエ』を劇中で役者がたどたどしく演奏したりと、モリコーネの音楽を主軸に据えた映画作り。特定の役者を想定して脚本を書く「当て書き」ならぬ、音楽先行の「当て撮り」って、もはやモリコーネのPVじゃないですか?その方法で作ったから、あんなにも音楽と映像が関連しあって(カートゥンみたいにシンクロするわけではないのも、また面白い)構築できたのかなーとか色々考えました。
映画の付帯音楽じゃなくて、モリコーネの音楽をやりたくて、ずっとやっていた人。作曲の着想を脚本や役者や映像から得て、それぞれの世界観に音で入っていった。音楽のスタイルは様々に、それぞれが独立した楽曲として残った。しかし演奏会で曲を聴くだけで、映画のシーンが脳裏に浮かんでくる。エンドロールが終わっても、映画作品とモリコーネは強くしっかりと抱き合って、離れることはない。